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お寺の知識

設斎供養と精進について

年回の供養において、法要の読経などがつとまった後に、一同に会して食事をいただく席を設けます。これを設斎といい、また当佛のみならず導師はじめ参列者に対する供養と称し、その一連の行いを法事とも呼び習わしています。

ここでの設斎供養とは仏の説く、自己に執着せず皆を尊重する教えに基づきます。これを当佛のお立場から説かせていただけば、「私に供養を行うのであれば、皆に供養を行って欲しい」という願いがおありだという事です。なぜならば仏の弟子としての当佛の眼から観れば一切は貴く、自身は「已成の仏」(すでに成し遂げられた仏)であるが、人々も貴い「未成の仏」(未だ完成していない仏=将来の仏)ということであり、その大切さは同じであるからです。そのお心を実現するために、施主となった子孫などが手伝う心をおこし、共に我が事として人々に対し供養の行いを大切に実行するのです。

また供養の席を「仏の道の修行の場」と見れば、食事を受ける人々は、そのいのちを大切に生きるために、食べ物を頂戴することをまず感じるべきです。その食事に出された食べ物は、今のいのちを育む大事なものでありますが、生命のあったものの体と、ひいてはいのちを譲り受けることを忘れてはなりません。自分の貴さを自覚すると共に、支えられている自分を感じて、支えてくれた一切に感謝して、さらに努めていくことを誓うのです。

ここで精進といいます。この意味を努力や我慢と受けとり、法事の際には肉魚やお酒を努めて我慢し控えるという仏事の仕来り的な建前と捉えている傾向があります。そうであれば、現代の特に都市部において、たとえ法事の設斎であっても肉魚も出ればお酒もつく、もはや昔ながらの精進料理は無くなって建前たる精進は行われなった、だから正直に本音を出して食べたいものをにぎやかに会食するなどという事になります。しかし高祖道元禪師は「諸々の善法において、厳修すること無間なり、故に精進という、精にして雑ならず、進んで退かす」とお示しになられております。ここには肉魚をなぜ控えるのか、酒をなぜ飲まぬかは、悪を造らず善いことを行うという、仏の教えの実践としての精進だということです。

捕まえようとすれば逃げ回り、命を絶とうとすれば悲鳴を上げ、その体を切ろうとすれば我々と同じように血を流す。また野菜は逃げぬがやはり切れば汁を流します。そういうものの命で支えられているのが私たちなのです。大悪を行うか、せめて慎みをもって小善を行うべきなのか。またお酒は自己中心になりかねず、大切なことを忘れさせます。酒の肴という言葉もあるとおり、いのちの継承、相続を感じるべき設斎の場には、ふさわしいものとはいえません。ここにおいて精進が大切とされ、肉魚酒を控える設斎供養の文化が調えられて伝えられてきたのです。

ではなぜ肉魚や酒が出るようになったのでしょうか。日本には禊祓や、義理を立て、恥を知りけじめをつける文化がありました。それで神事や仏事においてはまず精進潔斎を行い、その後直会や精進落しといった席を設けて、ハレとケ、非日常と日常のバランスを保ってまいりました。これはたとえ善だとしてもそれを強調せず、世間的なつながりも大切にしていく考え方と承け止めたいと思います。しかし現代においてはその伝統的なあり方が、さらに法事に積極的な立場でも時間や手伝いなどの人的、経済的な制約、また懐疑的な立場からは儀式の簡素化や格式ばることを嫌う風潮から、本来性格が異なるため別々に行っていたものを、一緒にしてしまったのです。しかしこれを具体的に、客人に対するもてなしや、大切なものの占有をさけるお裾分けの振るまいや、遠来や多忙の中で時間を割くことの労いとみて、善意に解釈することも大事でしょう。もっともそのために元来精進として感じなければならなかったものが、片隅に追いやられたのは悲しむべきことと思います。

ここで神事の潔斎と同列に、仏事の設斎の精進を取り上げましたが、これが一般的、世間的な受け取り方だったとしても、ここでとどまってはその精進の大切さの半分も受け取れないことになります。それは「平常心是道」(日常に真理を実践する)といい「如法如常」(法の如く常の如し)を尊ぶ教えが「精進」にあるからです。もう一度「精にして雑ならず、進んで退かず」を味わってください。前述にも本音と建前という受け止め方を書きましたが、そのように時間的や仕来り的に捉えるのではなく、本来的な精進をしっかりと土台に置き、その上に世間のつながりを保つ上で止む無しのもてなし・振舞い・労いが加わったとしてそれらの全体を捉えて、世間的ではあるけれど大切さを損なわずに、行うべきを行うと考えるのです。ここにおいて、設斎供養に加わりその供養を受ける我々の方にこそ精進を心がけていくと考えることが、当佛の願いに応えることと存じます。

 当佛の願いとは何でしょうか。自分に供養するのであれば皆に供養して欲しいと述べました。その心を受けて法事の膳を振舞う施主であるはずです。しかしその場に集まった参列の人たちのみに供養を行うことを仏は求めているのでしょうか。もちろんそれだけではありません。だからこそ法事が、法施(仏の教えの施し)といえるのです。集まった参列の人は、自分の命を支える食べ物のありがたさを感じ、また自分の命のかけがえない働きを再確認します。その上で自分もまた仏と同じく皆のためを行うべきなのだと誓いを持っていただきたい。それが当佛の、限りあるいのちをかけがえなく生きる我々に対する願いなのです。

もちろん身近にいわゆる冥福を祈ったはずの人々です。「発心正からざれば万行むなしく施す。」そのいましめを正しく思うのであれば精進が難しいこととは思えないはずです。そうした仏心に目覚めた人に、導きのよすがを渡して世間を広く導く心を持ち帰り、まず身近の人に実践していただくのです。そのよすがが引き出物です、それは単なる記念品ではなく、参列者が仏の行いを行うための手伝い、供養の物品であるのです。「廣度諸衆生」(広くもろびとを済う)という仏の心が参列の人々によって実践され、それによってさらに多くの人に伝わる。これこそが仏の願いの実践であり、その観点で見るならば、立塔の塔婆や、無縁供飯や、引き菓子、さらには隠れなき報告の意味の二合瓶の志酒までが、心の現成としての精進の現われにほかなりません。

仕来りと思いながらも、伝統にしたがって行うのは当座は問題無いのかも知れません。しかし意味を正しく受け止めずに単に行うことは、懐疑的な観点の人をも回心にいざない、正しく一切衆生を導く教えの実践とは言えません。疑問を持つことを大切です、また疑問に答える誠意を持つべきです。常に一から萬を学び萬から一を照らすという学びの道を精進していきたいと思います。

曹洞宗 曹源山

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