元禄の頃、瑞川寺は旧奥州街道に面した現在地に移転されました。街道から入ると、春夏の花々の咲く参道には、阿弥陀如来、大日如来の碑文が建ち、宗派に拘らぬ大らかな仏教の姿を感じることが出来ます。
大崎葛西一揆により廃寺同然となった瑞川寺を復興するにあたり、旧古川城の搦手門を移転改築して山門にしました。太平洋戦争までは鐘楼を兼ねていましたが、昭和 50 年代から羅漢堂に戻されました。
本院の境内には葬儀用の大きな三そう場があります。その三そう場を観世音菩薩の立像・座像が見守ります。また明治時代、永平寺 64 世森田悟由禅師揮毫の有縁無縁供養塔が建立されております。
江戸中期に改築された現本堂は、間口 8 間半、奥行 7 間半、 21 畳の大間を備えており、平成 2 年に屋根を銅板に葺き替えました。規模に比べて棟が高く、 5 丈 3 尺 5 寸あり、改築に携わった人々の気概を感じます。
開山の松庵堅貞大和尚をはじめ開闢及び歴代の住職と、当寺中興開基の鈴木和泉守元信公及び大檀越亡僧の位牌を祀るお堂です。なお昭和 48 年に改築されて坐禅堂を兼ねております。
昭和 54 年の改築、檀信徒先祖の位牌を祀っております。菩提寺に位牌を建てると謂うことは、本尊へのお給仕はもちろんながら、自分の祖先を仏弟子として供養し、現世の人々を導いている姿を観ることなのです。
一階中央に韋駄尊天、大黒尊天を祀り、典座(台所)において諸仏への供飯を調えると共に、住職の居宅と事務の場となります。なお平成 7 年に檀信徒の応接室を増築しました。
鐘楼堂は平成 3 年改築、梵鐘の口径 2 尺 8 寸、毎日午後 5 時に鳴鐘されます。小庫裡は昭和 48 年に改築され、主に檀信徒の設斎会場などに利用されております。
観音堂は境内の南西遇に位置し、北を向いて建てられております。本尊の握り観音の例祭は毎月 17 日と 8 月 9 日の四万八千日の宵祭りです。十王堂は古川氏開基の元塔頭、興福庵に建立され後に移転されました。
梅樹庵は昭和 48 年、大授戒会を啓建するにあたり、永平寺 74 世佐藤泰舜禅師を戒師として迎え、その寮として改築されました。また稲荷大明神は当山鎮守として境内北西遇から正法擁護、伽藍護持をされております。
鎮守秋葉堂は江戸末期に遠州可睡齋から勧請した秋葉三尺坊大権現を祀ります。白山霊祠は山門に向かい右手にありますが、道元禅師の帰国に際し霊験があり、曹洞宗の寺院で特に尊崇されております。
大正 6 年、本院の中庭に地元石工による釈迦三尊と十六羅漢が奉安されました。作者は青森出身の平沢光石氏
太平洋戦争が終わった頃、瑞川寺は杉の木立に囲まれていたそうです。その後昭和 27 年、宮城県庁の要請に応え、墓地整理を県下寺院に先駆け断行して現在の姿に変わりました。森は惜しまれながらも姿を消しました。