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安身立命 普く自他を利するなり この国、むかし過った。 世のため、人のためなりを、 限りをつけて考えた。 さらにお国のためなりと、 わたくし殺して公に、 尽すばかりを強要す。 戦い止んで人々は、 国に尽すを後悔し、 なおさら大きな誤りの、 自分のためだと思いこむ。 教え受けずにつつしみを、 知らぬ人々溢れたり。 正しく持つべき考えは、 自ら貴さ損なわず、 世のため、人のためなりと、 限りをつけず利すること。 二度ない命の我らなり。 欲を張らずに、我が侭せずに、 今生つつしみ調えん。
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2006/05/05 13:25 |
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照第一天 発心修行菩提涅槃 生死正しく歩まんと、 道を求めて心を発こす。 己、未だに度らずも、 他者先ず度さん、営まん。 一切移ろう無常の中に、 いたずら任せぬ志念あり。 縁起の諸法に無我を知り、 共に生きるをつつしみて、 この世限りと限りをつけず、 縁に報いて私離る。 衆生を済う慈しみ、 悲しみ憐れむ心あり。 他者の楽しみ我が喜悦、 見返り求めぬ大捨なり。 只管に坐り、御法に住い、 無上の生死に導かん。 |
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2006/05/05 13:22 |
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よくお檀中に尋ねられることがあります。 「お布施の向きはどちらですか」と。 「お布施」「御布施」「喜捨」「志」「恩金」etc、要するに供養の浄財であり、心をこめてお金などを包んだものです。名称の定義は省きますが、何れも施主の志しを表すものであり、またその行いは布施行となりますので、当地方ではほぼ「御布施」で通っております。 さて「向き」とは当仏の前に供えた場合です。法要後に包みを僧侶に渡す場合は、もちろん施主から見ては逆さまになるでしょう。それは「御祝儀」や「御見舞」などの包みと同じ、いわゆる常識です。もっともお坊さんのお経への「謝礼」などと考えるのであれば、疑問などあろう筈がありませんが。 迷うのは仏前への供え方のようです。 ここで学ぶべきこと、供養は当仏へ向けてであっても、当仏は一切衆生のための心があるということです。つまり「自分を通じて皆のため」です。一旦は預かれども、それを回らす心をお持ちなのです。これが「応供」の心。「応供」とは「供養を受けるに値する境涯」と説かれますが、要するに衆生済度の心があるが故に、供養に応じられるのです。もっとも曹洞宗では拝具授受作法として、直接の手渡しをせずに、仏前や床の間に供える作法がありますから、心得て学ぶべき事であります。 結論は「お布施は当仏に向ける」ということ。「貴方を通じて皆のため」です。そしてそれに当然、応じられる仏様なのです。僧侶はその皆のための心を承って預かり帰り、お寺の運営に役立てるのです。もちろんお寺も「寺を通じて皆(社会)のため」です。それを弁えぬと「坊主丸儲け」などと、陰口が聞こえてきます。
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2006/05/05 13:52 |
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