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瑞川寺について

論考

花庵大春考

 封内風土記と県史料志田郡風土記御書上帳を見ると瑞川寺、養性寺も天正 9 年創立とある。一は松庵堅貞で一はその弟子花庵大春である。その頃は大崎家十五代義隆の頃で内訌争乱の時代である。古川城主は古川刑部一族滅んで血系の古川禅正忠隆の時代であり、塚ノ目の領主は青塚左衛門吉春であった。また、米沢を根拠となした伊達氏もまた仙南伊達信夫両郡を中心として近隣の豪族と争斗をくりかえしていた。

 丸森の松音寺も無事とはいいがたい時代であった。したがって、松庵花庵の師弟ともども当地に巡錫したことはいなめない。ことにのちの瑞川寺、養性寺両寺の事実上の創立者である花庵和尚はその「春」の名の示す通り、育塚氏(古川氏)の族を思わせる。よって天正 9 年、師松庵和尚が瑞川寺のわずかにのこった塔頭の法輪院に入り(封内風土記安永風土記に古寺跡あり、これをいうか)、弟子花庵和尚が現在地に養性寺を建てたのかもしれない。しかし、これも天正 19 年葛西大崎の一揆のため共に焼亡し、このころ松庵和尚は死去した。その当時、塚ノ目に住せし鈴木三四郎後の和泉守が古川城主となったさい、共に廃寺となっていた瑞川寺を慶長七年再興し、少しおくれて慶長 11 年(佐々木忠雄氏説)養性寺をもとの寺跡に再建したと考えられる。思うに花庵大春は和泉守の帷幄の人と思われる。

一庵林隻考

 宗良公、祖母田村氏の請により父義山公より田村家の名跡を継ぎ桃生郡深谷に国替の時、衆僧行を共にするも一庵和尚のみ同行せず独り瑞川寺の祖跡に止まる、その意は開基公の志は領主のみの菩提寺にあらずして領民の安心の為廃寺を起したるものなればとの心なり。

 この人あって、瑞川寺は古川に存続するを得たりその功大なりというべし。

三瑞寺考

 一関の瑞川寺と分かれてのち十世裕叔臨光の時代漸く古川の瑞川寺の基礎固り仙台の輪王寺の古法萬英和尚は古川の瑞川寺を深く愛し瑞川寺記、観音堂記、古鐘銘文等を残して居る。それをみると当寺の輪奐風致の壮大優美な様子がよく窺われる。郷土史家佐々木忠雄氏によれば、瑞巌寺、瑞鳳寺と並んで時人称して伊達氏の三瑞寺と言ったという。恐らくは参勤交代の諸侯や諸国廻遊の人々の眼にかくの如く映ったものであろうか。

蓬莱庵考

 明治 14 年大柿外三ヶ村戸長役場の戸長であった、十日町の鈴木孝之助氏宅より和泉守内室とその子七右衛門内室の法号が発見され当寺に届出られた。このころ地租改正により法橋川原墓地の空地は鈴木氏の所有となり、又その数世の祖母戒厳恵光大姉が蓬莱庵の留守職となったので鈴木家に所伝したものと判断される。「蓬莱」は不老不死の仙薬のある処の意味であるが、これは元来、釈尊成道の際の十二因縁の最後の「老死」を空無した意味の不老不死のことである。恐らくは夫の死後、姑と嫁が同居して亡夫を弔いその夫婦共々の来世の安楽を願ったものであろう。

鈴木和泉守と瑞川寺

 戦国の世に功名をたてた武将は数知れない。そのなかに古川の開祖、鈴木和泉守元信公もふくまれている。元信公は、戦国武将として功名をたて奥州の覇者、伊達政宗公に取り入れられた人物。元信公は戦いよりも藩財政に辣腕を発揮し、奥州に比類ない藩体制を確立した陰の功労者として知られていることは衆目の認めるところ。

 大崎氏が葛西氏と共に豊臣秀吉に滅ぼされ、その領地は木村伊勢守父子にあたえられた。父吉清が登米郡佐沼、子息清久が古川に居を構えたが、父子共に失政が目立ち、領民が離反し、領内各地で一揆がおこる。秀吉は苦清父子を糾弾して領地を没収する。

 一時、蒲生氏郷にあたえたが、これを受けなかったことから、政宗公にあたえられる。天正 19 年 2 月のことである。その年 9 月 23 日米沢より磐手沢城に移り岩出山城とあらためた。移封のとき政宗公も蒲生氏郷の拒んだ領地におもむくことをよしとしなかったが、徳川家康に説得され、家康みずから大崎領に軍を率いて城普請を手伝い、 8 月 18 日から 9 月 27 日まで諸法山実相寺に滞在した。

 元信公は、政宗公が岩出山城を築くと同時に古川にうつされ、稲葉、新堀、西荒井、北原、南原の六村、一千五百石を与えられた。

 元信公のいみなは、はじめ秀信、言信、重信、三四郎または、七右衛門と称し、のちに和泉と改めたとある。出生は謎に包まれている。一説には会津黒川の人、穂積氏とされ、または「岩出山の市井の子といわれ、幼くして顕悟長じて器宇高遇、かつて京師に遊びて茶儀を学ぶ。政宗公茶儀をもって召して禄を賜い、遂に重職に任ぜらる」と、芸は身を助くの諺通りの立身出世をとげた− とある。

 このほか米沢の市井の出、古川弾正の弟青塚左衛門吉春(のち青木姓)の食客だったとする諸説もある。古川市(現大崎市)史(上巻)には武人ではなく、練達な仙台藩の経営で真価を発揮したとある。秀吉の朝鮮出兵に政宗公のもとで御用人として活躍した。

 元信公を古川の開祖とする所以は、度重なる戦火にさらされ、廃虚と化した古川の地に℃s日を設けさせて物々交換を奨励し、経済交流を活発にして今日の古川の基礎を築いたことがあげられる。慶長 9 年には古川町の検断役に佐々木大学を起用して新しい町割を行った。町割に使った地引用の縄は市内十日町、稲荷社を勧請して「一把藁地引縄明神」に奉納したとある。

 古川市(現大崎市)内の三日町、七日町、十日町の地名は、そのときにうまれたことになる。

 時代はさかのぼるが、大崎氏が統治していたころに、古川にはすでに堂宇楼閣を備えた立派な寺院があったと伝えられる。永禄年中松雲叟が寺務をとっていたが、大崎氏の滅亡と運命をともにし、仏閣は破壊され、僧侶も侵略されてしまう。

 元信公が古川の地を与えられると、まず町割を整え、続いて寺院の廃絶を嘆き、再営して数戸の租税を寺領として与え、仙台松音寺の六世松庵堅貞大和尚を請じて、中興開山の祖とし、曹源山瑞川寺と称した。

 このころ、徳川幕府は、一国一城令をだし、仙台藩は青葉城と白石城の二ヶ所に限定されたことから、古川城の城門も不用となったことから、瑞川寺を再興の際、古川城のからめて門を寄進して山門風に改築したという。

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曹洞宗 曹源山

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