寺院の歴史
明確ではないが、「稲葉村風土記」によると、当寺の中興開基である鈴木和泉元信、その嗣子七右衛門は法橋川原に葬るとあることから草創当時の寺地は千手寺付近であったと考えられる。大崎氏全盛時代は領主からの田地の寄進もあり郡内屈指の寺であったと伝えられる。それが永禄年間兵火にかかり諸堂・法器のほとんどを焼失、松雲という和尚が僅かに廃境を興して法脈を保ってきた。しかし天正 18 年( 1590 )の大崎一揆の際再び戦火に遭い廃絶の運命にあった。その後戦乱の鎮った慶長のはじめ、伊達政宗は、老臣鈴木和泉元信をこの地に封じた。鈴木和泉は廃絶していた瑞川寺を惜しみ、仙台松音寺六世松庵和尚を招請し、数戸の租税をこれに充てて再興をはかった。やがて元信が逝き、その子七右衛門が早逝したので、二代藩主忠宗は三男宗良をして鈴木家(後田村家を継ぐ)の跡目を継がせたが、鈴木家は桃生郡深谷に領地替えになり、菩提寺である瑞川寺も同所へ移るのであったが、五世一庵和尚が断固としてこの地に留まり辛うじて寺燈を保つことができ、十世林光和尚の代に寺地・伽藍を復興したと伝えられる。しかしこれも明和年間に火災にあい、寛政 6 年( 1793 )十七世道存和尚がこれを再建、そして明治初期三十世木村隆禅(南崖和尚)が寺運を中興したといわれる。戦後一時荒廃したが、昭和 42 年に檀信徒会館、同 48 年に小庫裡・梅樹庵(戒師寮)、同 54 年には祠堂殿(位牌堂)を新築し、同 62 年に大庫院改築、平成 2 年には本堂・山門・開山堂等をも修復して面目を一新した。また平成 3 年には太平洋戦争に供出の後、欠けていた梵鐘を再鋳し鐘楼堂を新築している。当寺は檀信徒が多く、墓所も各所にわたっている。すなわち瑞川寺囲・別院囲・金五輪・鳥原・大奥防などがあり、また塔頭では蓬莱庵(現別院)・興福庵(尼寺・廃)・太子堂があり、旧火葬場も当寺に属していた。
なお瑞川寺には古くから秋葉大権現を祠り火伏せの行事が伝えられている。これは天保年間、当寺二十五世嵩山和尚の勧請になるものである。秋葉山信仰は曹洞宗の寺院に多くみられ、静岡県の秋葉山大権現の火伏せの信仰に由来するが、天保年代は凶荒つづきで人心が極めて動揺していたことからこの信仰がとり入れられたものともみられる。これは、瞋恚火(いかり)・業障火(さわり)・世間火(火事)等の一切の火難を消滅し、町内の平和と生活の安全を祈願したものである。なお、本尊の釈迦如来は恵心僧都の作、山門は慶長 7 年頃古川城から移築、本堂は寛政 6 年の建築になる。檀徒 620 戸・信徒 700 戸当代住職三十四世木村謙文和尚。
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