往古盛大な時は郡内第一と称されたが、天文 5 年城主古川持慧一族の滅亡、天正 18 年大崎葛西の一揆等の兵火に罹災して廃寺となる。その間、永禄年中松雲叟が一時再興したといわれるが、慶長の初め伊達政宗公の謀臣鈴木和泉守元信がその廃絶をなげいて中興して今日に至る。
中興開山は仙台松音寺の六世松庵堅貞禅師で、二世花庵和尚が専ら事にあたり、鈴木氏とその領国の香華院となる。五世一庵和尚のとき、鈴木氏の名跡を継いだ一関の田村侯が桃生郡深谷に国替えののちは稲葉、大柿、古川、宮袋、四ケ村の檀那寺となり、十世臨光和尚のとき転地営替して隆盛をきわめたが、宝暦明和年中、烏有に帰した。現在の輪奐は十七世道存、十八世道円和尚が再建したのを明治はじめ木村隆禅が中興した。
なお、戦後農地法の施行により寺禄の大半を失い、一時荒廃したが、昭和 27 年より墓地区画整理を実施し、昭和 41 年以降漸く伽藍を整備し来り現住木村謙文に至る。
以上は当地の定説であるが、これは貞享 2 年に輪王寺の古法和尚の著した瑞川寺記によるものである。これに対して寺伝というものがある。それは天正 9 年瑞川寺、養性寺創建説である。これは一関瑞川寺でも伝承されていて、もとは御本寺の松音寺より由来するものである。それより類推した先住職の遺した一関瑞川寺での香語中の散文を誌す。
茲に惟るに、天文 5 年 6 月 21 日、古川城の古川氏は伊達、大崎両氏のため滅せらる。後代、大崎義隆これを哀しみ、その遺孤を赦して故地を与え、古川氏を興す。また、古川氏の霊を慰めんと欲して廃境に一宇を建つ。天正 9 年 3 月 15 日、伊達氏の松音寺の六世松庵堅貞、瑞川寺法輪院開山となる。同月 10 日松庵の徒、花庵大春は青塚山養性寺を起つ。蓋し属累の為なり。天正 19 年 2 月 26 日、開山和尚示寂す。是れより先、大崎氏は豊臣氏のために封を除かれ古川氏遂に滅ぶ。瑞川寺もまた廃寺となる。
慶長 7 年伊達氏の老臣鈴木和泉守元信、古川城主となる。瑞川寺の廃絶を慨いて花庵を二世に迎えて瑞川寺を再興す。古川氏の遺民喜悦して野を耕し市に商う。その依る処あればなり。和泉守父子死して鈴木氏後なし、伊達氏の公子宗良君入りて嗣となる。のち田村氏を称す。幾度か国替えの後遂に一関に到る。当山の衆僧皆共に行く。時に五世の一庵林隻独り従わず故山に留まる。その廃興の所以を知ればなり。因みに当山(一関瑞川寺)故山と開山歴住七世まで同一にして唯一庵林隻を欠くあり、延宝の年、古川の時人起ちて一鳥鐘を鋳てこれを晨昏に備う。軈て地を点替して輪奐を新にす。貞享 2 年輪王寺の古法万英師は遂に瑞川寺記一巻を撰す。茲に古川氏と瑞川寺二山の原由を伸べて以て爾言う。
しかじか見てくると定説の中の松雲叟と開山松庵和尚とが二重写しに重なって見えるが、僻目であろうか大方の叱正を待つ。但し輪王寺の古法和尚は藩政初期志田郡師山広禅寺の天柱和尚の下で立身したと伝えられていて当地のことにもある程度通じていた人と思われる。殊に輪王寺は松音寺と並んで泰心院、昌傳庵と共に藩内八八八ケ寺の僧録であった。 |